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Story

Story | キャリー焼菓子店のストーリーを書き留めた本があります。よろしければご覧ください。

わたしたちは、キャリー焼菓子店が、わたしたちが大切にしている生きかたと、世の中がこんなふうになれば良いなあという想いを、ゆっくりあせらずに実現していく場だと考えています。






私がお菓子作りに目覚めたのはちょうど今から7年前、二十歳の頃でした。調理師学校を卒業した私はカフェで働きながら夜な夜なお菓子を作っていました。あの頃の夢は「森のカフェで働きたい」でした。友人にはたくさん笑われたけど、いま、この夢が実現します。たくさんの自然に囲まれた地元丹波で小さな焼菓子店をはじめます。濃厚なチーズケーキとチャイ。サクサクのスコーンとコーヒー。ひとつひとつ手作りで愛情たっぷりに焼き上げたお菓子と旦那が作るチャイのお店です。

2015.3.30 店主 キャリー






お店ができるまで_

当店は元々、ボロボロの農機具小屋(納屋)でした(写真左の向かって右側)。 蔦は生い茂り、屋根からは大量の雨漏り、2階は小動物の寝床と化し、1階は荷物の山..。 到底住めるものではないと思っていましたが..。 あの頃の僕たちにとっては、ここをなんとかするしか方法がありませんでした。

写真左:今は解体し、駐車場になったが、当時「面白共同生活ボロ家」と名付け、最大8人でシェアハウスをしていた。

写真右:お店の屋根は雨漏りどころか、大きな穴が空いていたので、 地元の若き大工さん・山本さんにきれいにしてもらった。






お店ができるまで_2

当時(2014年)、母屋のほうでは最大8人(!)で、シェアハウスをしていました。僕が兵庫県立大学在籍時代、所属していたフォークソング部で出会った後輩4人とその友達と彼女と、そして嫁キャリーの8人だ。当時、結婚が決まった僕たちだったが、だからといって他のシェアメンバーに出て行ってくれ、とはなかなか言えず、貯金も少なかった僕たちにとっての苦渋の決断、よし、隣に建っていたボロボロの農機具小屋を改装して、新居にしよう!と考えたわけだ。まずは、いつも何かとお世話になっていた同じ地区に住む建築士ののりこさんに相談。できるだけお金をかけず、最低限の工事だけプロにお願いしたかった。あとは、自分たちで下手なりに、コツコツDIYで作ろう、そう考えていた。のりこさんとは、丹波に来て出会ったけれど、僕たちの考えることも、好みもセンスも全部わかってくれていた。

写真:シェアハウスをしていた頃、「大路月末バル」というビアガーデンも毎月主催していた。20代の頃は、お金はないけど、毎日色んな人がシェアハウスにやってきて宴会をし、楽しく、いい経験になった。






お店ができるまで_3

改装は、屋根の修理や大きな大工工事、水回りなどの最低限の箇所のみプロにお願いし、あとの、店のテーブルや椅子、棚、外のテラスや、薪置き場などは全て自分たちで作った。DIY用の木材もホームセンターで買って揃えるとなるとなかなか高い!なので、パレットを無料でもらえるところを探してもらいに行ったり、解体現場で捨てる予定の角材をもらいに行くなど、奔走した。結局、甲斐あってビス(釘)ぐらいしか買っていない!内装の漆喰も全部、自分たちとのりこさん、シェアハウスメンバーに手伝ってもらい、完成。 結局、改装費はその他のショーケースなどの備品も合わせても合計300万円ほどで「店舗兼住居」ができたことになる。それも、当初は「新居のみ」の予定だったが、当時、キャリーは丹波ハピネスマーケットに出店し、趣味の延長で手作りの焼菓子を販売していた。それを知っていたのりこさんが機転を利かしてくれ、将来のことを考え、菓子製造許可と飲食店営業の「二つの許可」を取得できる設計プランを立ててくれていたわけだ!

写真:そののりこさん夫婦とうちの夫妻の共同主催で始めた、月に一度の朝市「大路月末朝市」は、毎月、お客さんとの距離も近く、清々しい気持ちになる。また、伊藤夫婦は同じ会場で週末喫茶「KEISHA」をスタートさせた!美味しい自家焙煎珈琲などが楽しめる。当店から車で5分!






お店ができるまで_4

当時の僕は、無農薬のお茶づくりを学ぶために修行中だったので、給料はもちろん少なかった。 のりこさんが「結婚して、食べていくためにも、キャリーちゃんも家で得意の焼菓子を作り、その場で販売したらいいんじゃない?そのための、菓子製造許可をとっておいて、ゆくゆくは、ユウキくんが作った紅茶でチャイを作り、そのチャイとケーキが看板商品の美味しいカフェもできるように飲食店許可も取っておいたら?」と、目からうろこの提案をしてくれた。当時、3人でそういう話をしていたら、とてもワクワクしたけれど、反面、きっと、こんな何もない、遠く、車でしか来れない、 田舎の山奥に、はるばる誰も来てくれないだろうな、と最後は現実的になっていた。






お店ができるまで_5 

2015年、3月。

約半年間かけて作り上げた自分たちの店舗兼住居(というより小屋)。手作りのテーブルやカウンター、商品の陳列棚、手書きの看板、手塗りの内装壁など、僕たちの素人仕事だけれど、愛着の溢れた、自分たちらしいお店がオープンできた。今から3年ちょっと前の話だけど、あの頃と変わらず、地域の仲間、友人、そして優しいお客さんに支えてもらい、ストレスフリーで暮らせ、毎日楽しく生きてこれました。










これからも、快適で、楽しいお店になるよう、日々リノベーションは続きます。






ぼくのチャイについて_1

ぼくがチャイに出会ったのは、大学1年生・18歳のころ、神戸・元町にあった一軒のチャイ屋。 チャイの意味も、味も、なにも知らなかったぼくにマスターは衝撃的な感動を与えてくれた。 そのとき飲んだチャイは、とにかく優しい味がして、スパイスと茶葉とミルクが香り、何杯も飲みたくなる味だった。「茶葉とスパイスを水とミルクで煮出す。チャイはインドでは誰もが一日に何杯も飲むんだよ・・・」 マスターがチャイを作りながら話してくれるどの話も、一言一句忘れないよう、正座して聞いたのを覚えている。 それからすぐ本やインターネットで調べ、茶葉とスパイスを買いに行き、研究を始めた。それからは台所で毎日作った。 神戸は紅茶の消費量が全国一で、どこにでも個性的なカフェ・喫茶店があり、美味しい紅茶を飲ませてくれる。 その中でもごくまれに(当時)チャイを出す店があった。耳に入れば、研究がてら、必ず飲みに行った。なぜチャイにはまったのかはわからない。毎日チャイのことばかり考えていた。チャイは奥が深かった。作るのも飲むのも大好きで、楽しくて仕方なかった。とにかく。とりわけ20歳前後のぼくにとっては。

写真:チャイの出会いはチョウタラ(元町)から。同じく元町にあったライカフェや心斎橋のマンゴーシャワーカフェ、堂島のムジカ本店にも大きな感銘を受けたが、奇しくも全店閉店した。ぼくの好きなチャイ屋はなぜ閉店するのか、本気で悩んだ時期がある。






ぼくのチャイについて_2

チャイの文化も大好きだった。※ここでのチャイはインドの煮出しミルクティを指す。 インド人は昔、イギリスに統治されていたころ、品質のいい紅茶はすべて英国人が持ち帰り、王や貴族がたしなんだ。インド人は残った細かい茶葉や品質の落ちた茶葉しか飲むことができなかった。どうやったら美味しく飲めるか、ここにあるもので ..。そんな背景からチャイは生まれたと聞きます。暑い国で、カーストという厳しい階級社会がある、そして貧しい人が少なくないインド。 日々の糖分の摂取、水分の補給といった点からもチャイはインドで根付いた。 そんなインドで、カーストの階級関係なく、誰もが毎日何杯も飲むチャイ。ぼくは大学3年生の頃、とうとうインドで本場のチャイを飲みたくなり、貧乏バックパッカーで憧れの地を踏んだ。 インドは本当にどこでも一杯10ルピー(約20円弱)でチャイが飲めた。10分歩けばチャイ屋があるイメージ。 鉄道に乗っていても車内に5分~10分間隔で「チャーイ、チャーイ」と太く、低い大声をあげながら、チャイを売るおじさんが通る(この旅では鉄道で北インドを横断したので、鉄道での移動時間が長かった)。 そして当然のように日本人だとわかると立ち止まり、「チャイを買え!うちのが一番うまい!」と迫ってくる。寝台列車でさえ、止まらない。寝ることも休むこともできなかった。でもそれも今となればいい思い出だ。

写真:インド・タージマハルにて。 「一枚撮ってやる」と声掛けられ、頼むと50ルピーを要求された!






ぼくのチャイについて_3

インドでは、スーツを着た人も、路上生活をしている人も、子供もお年寄りもみんなチャイを飲んでいた。チャイを売る屋台では店主は手を休めることなく、チャイを仕込む。そのおじさんが花形役者のように見えた。チャイが少なくなると、大きな鍋に適当にコップ山盛り一杯の茶葉を追加し、砂糖とミルクと水を計らず注いだ。つぎ足し、つぎ足しで作り続ける。 火の燃料は、牛のフンを乾かしたものだったりする。たしかに路上では牛が我が物顔で暮らしていたな。チャイの器は「クリ」と呼ばれる素焼きされた器。飲み終わるとその場で地面にたたきつけ、割り、土に還した。カーストが根強いインドでは、クリだけを作り続ける階級の人もいる。 プラスチックの器も普及していたけど、ゴミになって汚かった。 インドの人はクリに慣れてしまっているから、同じように地面に捨ててしまうらしい。そしてプラスチック容器が普及すると、「クリ」を作る人の仕事がなくなってしまう。知らなかった文化。インドは視界に入る景色、匂い、人・・・すべてにおいて20歳の若者にはカルチャーショックが強すぎた。そして、何より、チャイがそこまで美味しくなかった!(笑)(神戸で飲むチャイの方が美味しかった!)ただ、行って本当によかった。チャイのことがまた好きになったのは、紛れもなく、事実だった。






▽9yearsチャイ(紅茶の煮出しミルクティー)

旦那が9年以上日々作り続けているチャイ。 たっぷりの茶葉と新鮮な丹波の水とミルク。 そしてこだわりのマサラ(スパイス)を使っています。 マサラは7種類のスパイスを自身で調合しています。 学生時代、本場インドにチャイの勉強に行ったが、 神戸で飲むチャイの方がはるかに美味しかったので、 茶葉とスパイスをバックパックに詰め込めるだけ詰め込み帰国。 その後もチャイが好きで、就職後、自分で紅茶の葉を作りたくなってしまい、 2年弱で生命保険会社を辞め、丹波に移住。 いつかは自分で作った紅茶の葉を使って・・・。 ちなみに愛犬の名前もチャイ(フレンチブルドッグ)

▽ほうじ茶チャイ

丹波に移住し、お茶屋に修行に入ってから生まれたチャイ。 香り高いほうじ茶を使用しています。 ほうじ茶チャイは通常の紅茶の茶葉量に比べはるかに多くの茶葉を使用し、 また煮出す時間も重要です。 そうしてミルクに負けないよう工夫しています。 オリジナルスパイスも一緒に煮込むことで、ここにしかない、香り良いほうじ茶チャイをお楽しみください。

写真上:台湾にて茶葉の買い付け

写真下:スリランカは鉄道沿いにも茶畑があった






~ この本は、キャリー焼菓子店2階のテーブルに置いてあります。 ~